錦糸の繭(まゆ)


長く暮らした錦糸町を去る日が来ました。
「ゆく河の流れは絶えずして…朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。」であります。

この有名な冒頭に続く文章を読まれたことはありますか。
「不知、生まれ死る人、いづかたよりきたりて、いづかたへか去る。また知らず、仮のやどり、誰が為にか心をなやまし、なにによりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそふさま、いはば朝顔の露にことならず。或いは露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。」

「朝顔」も「露」も儚いものの代名詞です。「朝顔」を人の栖に、「露」を人の命になぞらえています。住人が消えても栖(建物)は残ります。或いは、栖が滅び、人が残ることもあるでしょう。しかし、「露」も必ず滅びます。今回は、「露」である小生が去り、私が愛した「朝顔」が残ったまでです。それは、偶然の重なりだけであり、蜻蛉(かげろう)の如き「生命」であることに違いはありません。

「ここに六十(むそぢ)の露消えがたに及びて、更に末葉(すゑば)の宿りをむすべる事あり。いはば、旅人の一夜の宿をつくり、老たる蚕の繭を営むがごとし。」

鴨長明が書き残した「旅人の一夜の宿をつくり、老たる蚕の繭を営むがごとし。」とはなんて素晴らしい表現でしょう。「ダウンサイジング」とか、いま日本で流行りの「終活」なんていう、味気ない言葉とは比べ物になりません。

みなさん、ありがとうございました。みなさんとお会い出来た確率は、気絶しそうな位の天文学的な数字であり奇跡です。感謝の言葉しかありません。
画像は、錦糸町における私の「蚕の繭」からの眺めです。

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